「名選手 名監督にあらず」を考えてみた

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こんにちは、ひろみです。

最近の快晴、気持ちが良いですね!こんな日には山に登りたくなります。オーボエ吹き的には絶好のリード作り日和でもあります (°▽°)

さてさて、今回のお題は「名選手 名監督にあらず」について。主にスポーツの世界を中心に、最近はビジネスなどの分野でも言われているようで。

「本人は名選手だけど監督としては結果を出せない」

「選手としては成功しなかったけど、コーチとしては一流」

以前はどの分野でも、それを極めた人が指導者の道を歩むことに何の疑いもなかったように思いますが、最近の風潮はちょっと違ってきています。

 

その主な理由として挙げられるのが「自分がプレーする能力が優れている」のと「それを人に伝える能力は違う」ということだったり、出来ちゃった人には何で出来ないのかがわからない、ということに関することだったり。

 

私たちが学んでいる音楽の世界はどうなんでしょうね?専門に学び、演奏をし続けた結果、教えるお仕事をいただいてきた私にはとても興味がある話題です。

 

確かに、演奏を磨く中で受けたレッスンはどれも私の宝物です。でも、その中には「私には合わなかったやり方」もあって、それを自分でいろいろ試しながら選び、探し、自分の形として身につけたのが、私の今のやり方になっている。正しいか、正しくないか、ということではない 「私のやり方」

なので、アレクサンダーに出会う前の私は、この「私のやり方」を見せたり伝えたりすることを主に使いながらレッスンをしていました。

最近は、音楽の理論が音楽の理解の助けになるように、もう少し人間の構造というところも含めた動きや考えが多く私のレッスンを支えてくれています。そして今、コーチングやティーチングスキルを学んでいるところです。自分で作ってきた「教える」というスキルをきちんと学べる時間はとてもいろんなことを考えさせられています。でもそのスキルは、より私の伝えたいことを伝えやすくしてくれるものだな、そんなことを感じています。

技術を伝えるという面では「暗黙知」と「形式知」に大きなヒントがあるような気がしていて、探求中!

「暗黙知」というのは、言語化することができない(あるいは言語化されていない)主観的な知識

「形式知」というのは言語化することができる(あるいは言語化された)客観的な知識のこと

例えば「音を飛ばす」とか「ビブラート」とかがよくわからない、感覚的に起こっていることを「形式知」として知りたいな!なんてことに興味のある方は是非一緒に探求しましょう!!

私が出来なかった「巻き舌」についても、私がやり方を聞いたほとんどの人は自慢げに巻き舌をやって見せてはくれたけれど、そんな出来る人たちの説明は私には全くわからなかったし、出来るようにならなかった。

でも、アレクサンダーの学校ではこれを「形式知」にしていける学びがあり、私のこんな繊細なことがわかるの!?という驚きがありました!諦めていた巻き舌が出来るようになっちゃったのは

「優れた巻き舌の名手」

からの教えではなく

「暗黙知を形式知にし続けてくれた名コーチ」

のおかげです。